水のポリ容器
ベランダの隅に10年近く置いていたポリ容器の水を入れかえた。
刹那的な生き方が好きとか、カッコつけながら、実は、こんなものを蓄えていたのだった。
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(長文です。今回の地震について、わたしの思いも書いています。)
というのも、このマンションに越してきた翌年くらいだったか、水道設備の不具合で、ある日とつぜん断水したことがあった。
それはもう突然の出来事で、ものすごくびっくりしたし、ものすごく不便だった。
湿気がこもるのがイヤで、お風呂のお湯は最後に必ず抜いていたので、トイレの水を流すこともできない。
夫が仕事の帰りに水のペットボトルを買ってきたり、バケツを持って近所の公園に水を汲みにいったり。
まだ小さかったムスメをつれて、初めて近所の銭湯に行ったりもした。
初めての銭湯は、最後の銭湯になって、数年後、その銭湯も廃業した。
そのときは、まだ前のポメラニアンがいて、犬の水容器にもペットボトルの水(当時は今より高かった)を満たした。
翌日には断水は解消したのだが、それ以来、お風呂のお湯は次の日の準備をするまで、抜くことはしない。
そのときは仮の復旧工事だったので、もしかしたらまた断水するかもということで、夫が早速ポリ容器を買ってきて水道水を詰めた。
その後、本格的に工事をして、それ以来断水したことはないのだが、
「ああ、たまには水を入れかえておかなきゃいけないなあ」と思いつつ、10年近く。
今回の地震で、遅ればせながら、やっと水を入れかえたのだった。
ていうか、コトが起きてからじゃ、遅いじゃん。
その10年ものの水だが、日当たりの悪さが幸いしてか、容器もほとんど劣化せず、中の水にも変化はなかった。すばらしき東京水!
もちろん水は、そのまま捨てたりせずに洗濯に使った。
前のポメラニアンのことを、断片的に覚えているムスメは、「モモちゃんがいたときの水なんだ」と感動して、洗濯機に注がれる水を見つめていた。
今回の地震で、川向こうの浦安市では、まだ断水がつづいている。
あの不便と不安を思い出すと、ほんとうに他人事ではない。
上水道だけではなく、下水道もやられているようで、水が出るようになったとしても流していいのかどうかさえ、まだわからないそうだ。
ガスも通じていない地域もあるのに、計画停電の範囲に入れられて、日に数時間停電までするのだという。
あまりの不公平さに、ほんとうに申し訳なくなる。
わたしの住んでいるところは、計画停電の区域から外れている。
水も出る。ガスも通じる。
ムスメは毎日学校に通っているし、多少の食材の変更はあるものの給食だって、空腹を十分に満たすほどの量を食べて、午後まで勉強することができる。
浦安も旧市街では、ライフラインが生きているのだが、市内の小中学校は地震発生以来休校を続け、そのまま今年度を終わるのだという。
たとえ非常勤でも教員のはしくれとして、子供たちが勉強もできず、そのクラスで最後の学校生活も送れないまま、この学年を終えなければいけないことを思うと、苦しくてたまらない。
停電させるなら、被災地の浦安ではなく、こっちを!
と願わずにはいられない。
一方で気がかりなのは、日本中を覆いつくす自粛ムードだ。
まさに未曾有の大災害なのは確かで、脳天気を装っているわたしだって、日に何度も、浦安だけでなく遠く離れた被災者の方たちのことや、流されてしまった場所のことや、先の見えない不安を思っては、とても苦しくなって、日常の手をとめている。
でも、遠く離れたわたしたちが、ただ胸を痛めて、何もかも我慢して苦しみを分かち合った気分になるだけで、助けになるのだろうか。
答えは、いうまでもなく否だ。
東京周辺でも、イベントの中止が相次いでいる。
わたしが関わることでも、品川てづくり市、委託イベント、そして4月初めに予定されていたさくらまつりが区をあげて中止になった。
建物が使えなくなったとか、停電が頻繁にあるとか、物理的に不可能な場合はしかたがない。
でも、そうでなかったら、開催するべきではないのか。
必要以上にみんなが落ち込むことより、わたしたちが元気に普段どおりの生活をして、自分のできることをする。
イベントを“不謹慎だから”という、わけのわからない精神論、あるいは世論という見えない敵を前に中止することは果たして良いことなのか。
戦時中、「戦地の兵隊さんは、もっとつらい思いをしているのに、この非常時に、そんなことをして…この非国民!」という号令のもと、満腹の食事はもちろん、ささやかな娯楽まで弾圧され、ひたすらストイックであることを求められていたという歴史と重なって見える。
(いうまでもなく戦後生まれなので、実際に目や耳にしたわけじゃないけど。)
地震で助け出された人の言葉が、「ありがとう」ではなく、「(迷惑をかけて)すみません」だという。
それを外国では、謙譲の美徳のなんのとほめそやしているそうだが、根底にあるのは、日本人の文化を長く支配してきた“世間”という概念だ。
高校まで勉強していると、国語の時間に、そういった文章を目にすることがあるはずだ。
その世間という概念のおかげで、外国で報道されるように、パニックにならない日本人でいられるわけだが、それは一方で世間から外れないように、必要以上に世間を気にするという逆効果を生む。
今回の自粛ムードは、例によって、その世間を気にした行動であると、わたしは思う。
それは、多くの人たちのブログの更新が止まっていることにも見られる。
「ブログを更新している場合ではないので…」
そういう本人が被災しているのか? 身近な人が被災しているのか?
そうではなく、なんとなく皆が自粛しているから、ということはないだろうか。
もちろん、中には、ほんとうに心が沈んで、とてもじゃないけどブログの更新とかハンドメイドとか、そんな気分ではないという人もいるだろう。
そういう人に、無理に元気を出してと強制することはできない。
また、やっぱり自分は自粛したいという気分の人もいるだろう。
でも反対に、いつも通りのブログを読むことで、心を落ち着かせたい人だっているはずだ。
日本の憲法では言論の自由や、思想の自由が保障されている。
ブログの更新も自由、自粛も自由。
でもそれを他人に強制したら、それはもう他人の権利を侵していることになる。
わたしは、ブログの更新も、ものを作ることもやめるつもりはない。
自粛しなければいけないほど、だれかに対して後ろめたい行動であるなら、それは平常時でも行うべきではないと思うのだ。
そしてイベントの中止やレジャーの中止、消費行動の自粛にも反対する。
これは、選択の自由ではなく、日本のために、やめてはいけないことなのだ。
デフレ・スパイラルと言われてた日本経済。
不況→物が売れない→値段を下げる→やっぱり売れない(あるいは安いものしか売れない)→さらに値段は下がり、経済は悪くなる。
消費が罪であるかのような気分が日本中に蔓延し、お金を使わない方向にすすみ、さらに経済が沈下していく。
地震の前の日本経済は、既に、のっぴきならないところまで来ていたのだ。
そして今、不謹慎とか自粛とか、そういうキーワードにとらわれて、ますます経済の動きが停滞したらどうなるか。
そうでなくても、首都圏では計画停電とかで、自宅待機をしなければいけない労働者が多くなっている。
周知のように、非正規雇用(バイトとか派遣とか)で働く人たちは、例外的な働き方とはいえなくなっているほど多いのが日本の現状である。
時給や日給で働いている人たちが、長引く自宅待機でどうなるか。
これ以上、失業者を増やしてはいけない。
働かなくてお金が入らなければ、募金だって、できないじゃないか。
今、被災していないわたしたちにできること。
それは、いつも通りに生きて、元気でいること。
自粛し、引きこもることではなく、街に出て消費行動(お金を使うこと)をすることなのだ。
それらこそが、今、わたしたちにできる復興のための最大の後方支援なのだ。
どうか一日も早く、みんなの生活が元のようになりますように。
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